誰も待ってないかもしれないが、お待たせしました。
東京での展示も終わりましたが、各地に巡回します。今は大阪でやってます。京都にもきます。でも、いいんです。わたしは写美(=東京都写真美術館)が好きなんです。
巡回予定はこちら→世界報道写真展2012 開催概要
今年の世界報道写真展が割合折々に見聞きすることが多かったのは、去年の東日本大震災であったり、アラブの春などの世界的にも大きな出来事が多かったからだと思います。
この2つの出来事を写した作品は冒頭に展示してあったので、とてもインパクトがありました。
大震災のものは、同じ日本で起こったことで身近なことだし、当時のニュースでも見た光景が写真となってそこにあることは、実際に経験していませんが、ニュースを見た時と同じような衝撃を受けました。
泣きたくなる気持ちもあり、涙も出ないような虚脱感もあり、何も言うことができません。
「Japan's Nuclear Refugees」 - General News, 3rd prize stories, David Guttenfelder
日常というものが、ほんの数時間前まであった平和な日常が、もう二度と戻れないものになってしまう、悲しいやさみしいという言葉以上の現実が、今も現在進行形で続いています。
「Tsunami Aftermath」 - General News, 2nd prize stories, Paolo Pellegrin
いわゆる「アラブの春」を写した作品は、震災の作品とは別の恐ろしさがありました。
「World Press Photo of the Year 2011」 - Samuel Aranda in Yemen
「On Revolution Road」 - Spot News, 1st prize singles, Yuri Kozyrev in Libya
日常の中に争いがあることは、どんな状況なのだろうか? 戦争も紛争もトラブルや事件にも遭遇したことのないわたしには、とても想像できることではありません。
同じ地球でも、そこに生きる人々の日常は千差万別で、仕事をしなくても遊び暮らせる人もいれば、一日中働き詰めで疲れきっている人もいます。
自爆テロの被害に遭い1人立ち泣き叫ぶ少女、6歳で25歳の男性と結婚した少女、たった一瞬のためにすべてを費やす飛び込み選手、歌手を夢見てしがないバーで歌う人、最後の1頭となってしまったサイを付きっきりで守る人、命の危険も顧みないベースジャンパー。
※それぞれリンクを貼っています。
どれも世界の1ページで、そこに生きる人々の日常の1つなんだと思いました。
写真というのは、ただ「そこにあるもの」をそっくりそのまま切り取ることができるツールだと思います。芸術としての写真には撮る人の感情が入るし、こういう報道写真には、取られる人、そこにあるものの感情が入り込みます。
また、そのものに感情がなければ、「ない」という事実もわかります。
普段、日本で見ることができるニュースや報道では知ること(見ること)ができない、世界中で起きた一瞬と日常とそこに生きる人々がいることを知ることができました。
知ったからと言って何ができるわけでも、何か行動を起こすわけでもないのですが、なんでも、知らないより知っていた方がいいと思っています。
そう思うのは、わたしが知りたくもないような現実に向き合ったことがないからかもしれませんが、少なくとも今はそのように思います。
平和が一番だし、別にこのようなシビアなことは経験したくないです。
ただ、理解できない、縁がないと遠ざけ、何も考えないということだけはしないようにしたいです。
写真はすべて公式HPより→2012 World Press Photo (英語)
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