今月25日に行ってきました。ジャコメッティ、大好きです! 当初、これのために東京行こうかと考えるくらい、大好きです。ちょうど運良く、コンサートも行けて、漆器の展覧会もあって、そしてジャコメッティ! 個人的には超すばらしい東京1泊2日でした! 観光って何? っていう勢いで、わたしは東京には展覧会とコンサートのためにしか行ったことがありません。
章立てはあるけど、作品は順番ではなく、だいたいその部屋、その場所というアバウトなものでした。だけど、だいたい分かります。作品は100点以上、章立ては16章まで。超充実のジャコメッティ。好きな作家を、これだけの大容量で見られて、本当に楽しかったです。
そしてもう1つラッキーなことがありました。外国人の方が、間違って借りてしまったのか、必要のない日本語の音声解説の機械を譲ってもらえたんです。わたしは音声解説というものを使ったことがありません。初めてでした。500円必要なんですが、それをいつもけちっています。けれどラッキーなことに使うことになって、聞いてみたら、案外面白かったです。聞くのにも見るのにも集中しなければならないので、聞きながらは見れません。わたしの場合。(速水)もこみちの解説の他に、(山田)五郎さんによるスペシャル解説もあって、雑学的な話を『ぶらぶら美術館』みたいに話してくれるものがあり、そっちの方が面白かったです。
前置きが長くなりましたが、そんなこんなも含めて、作品画像へ。
《大きな像 (女 : レオーニ)》 1947年 |
最初に展示されていた作品。ジャコメッティと言えば、細い線のようなブロンズですが、まさに「らしい」作品の1つだと思います。
わたしがジャコメッティを好きな理由というのも、その線の細いところです。すべての無駄を削ぎ落として、人間として必要な芯だけ残した印象が好きでした。そして、その見方、感じ方はその通りだったのだ、ということが再確認できた展覧会です。
《女=スプーン》 1926/27年 |
お腹、胴体(?)のところが後ろへ減っこんでいて、本当にスプーンを大きくしたような像です。《横たわる女》というのもスプーンみたいと思って、その後にこれを見たので、スプーンで合ってるんだ、と思いました。
初期はキュビズムやシュルレアリスムに嵌った時代です。
見えるままに作ろう、描こうとするとなぜだか小さくなってしまう。じゃあ、モデルを用いずに造ってみよう、ということになり、オブジェの制作へ移っていったようです。
見えるものを、見える通りに再現しようとする探求の姿勢。それは、単純でいて、一番難しいことではないかと思います。単純でシンプルなことの方が、実は難しいのでしょう。
《鼻》 1947年 |
タイトル通り、鼻の長い作品。ヴェネツィアの仮面みたいな感じです。鳥みたいなのありますよね。枠があることとか、吊るされていることとか、いろんなことが他にはない特徴があります。
「小像」というタイトルの第2章があります。モデルを使わずに、記憶に基づいて制作したところ、台座は大きく、人物はマッチ箱に入ってしまうくらい小さくなっていってしまいました。
大きな台座は遠くにいる人との隔たりを、小さい人はその隔たりで省略されたものの具現、ということが(確か)音声解説でありました。「見える」ということの表現、というのは、だけど実際には可能なのかどうか。
小像は本当にちっさいです。近寄って、眼を細めて、じっと見てないと、そのもの自体曖昧になってくるほどです。
《3人の男のグループⅠ (3人の歩く男たちⅠ)》 1948/49年 |
第4章「群像」。人物の関係性、歩いて行く方向、空間と身体のバランス、そう言った他者同士の関係や空間を重視している群像です。
《犬》 1951年 |
弟ディエゴも芸術家で、彼が動物をモチーフにすることが多かった反面、兄の方は動物の像はとても珍しいです。あったんだ、と思ったくらい。犬と猫の像もありました。
ジャコメッティが動物をモチーフにしなかったのは、彼らが人間の意思に沿わずに、じっとしていないからだと思います。
モデルが身動ぎでもしようものなら、大事故でも起こったかのような大きな声で「ああ!」と叫んだ、という矢内原伊作さんというモデルを務めた人の話があります。
《ヤナイハラの頭部》 1956-61年 |
これはおそらく後期(7月19日~)から展示されるものではないかと。矢内原伊作さんという、実存主義の哲学者です。パリに留学中、ジャコメッティと知り合い、意気投合してモデルも務めることになりました。五郎さんによるスペシャル解説によると、帰国が決まったので挨拶に行くと、「最後なら、絵を描かせて欲しい」と言われて、それはいい記念だと気軽に引き受けたら、帰国を延期しないといけないくらい長期になったそうです。その後も、長期休暇の度にジャコメッティの元を訪れて、モデルをしたのだから、お互い余程気に入ったというか、話も合ったのでしょう。合計にすると5年にもなるそうです。
矢内原さんが、ジャコメッティの制作風景など、いろいろな話を残してくれているので、日本人は世界中で最もジャコメッティを理解しやすい国民ではないか、と言うことです。
《ヴェネツィアの女 Ⅰ~Ⅸ》 1956年 |
制作過程までも明らかにして制作した連作。番号は付いているけれど、制作した順番ではないそうです。15体の中から最終的に9体に厳選されました。今回の展覧会では、この9体が一同に見られる、珍しい機会だそうです。
ずらっと並んでいると、圧巻。どれも同じようでいて、よく見ているとやはり違います。だけど、みんな、端正な出で立ちです。展示方法もきれいです。
どの作品も、ライトが1点から照らされています。ライトが当たっている方向が正面だと思っています。その方向から見て、横から見て、後ろからも見て、全体を把握する。正面は大事です。彫刻の場合、影がいくつも出来ると、作品の邪魔のなることもあると思うからです。《ヴェネツィアの女》は実物も迫力があってきれいですが、画像でも、とても美しいです。プロが撮ったのだし、当然と言えば当然かもですが。
《犬、猫、絵画》 1954年 |
ジャコメッティのアトリエはパリの場末の、周りになにもない(五郎さん談)23平米の小さな部屋でした。最初は本人も狭いと感じたけれど、そこで制作していくと、段々と広く感じるようになって、何でも出来るようになった、とのこと。物が増えて、段々部屋が狭く感じていくことはあるけれど、その逆はあまりないですね。23平米って、多分、何もなくても狭い。
アトリエはもう1つ、故郷の街スタンパという場所にある、父親が残した家にもありました。父が死んだ後も、母が残ったその場所に、何度も行って、そこでも制作していました。
何となく、こういうエピソードからも、ジャコメッティが持っていた「縮み志向」とか、「内側へ向かう」傾向がよく分かりますね。
photo : tana |
photo : tana |
photo : tana |
14章「チェース・マンハッタン銀行のプロジェクト」のために制作された作品群。14の部屋だけは撮影可能です。それは、作品が屋外展示用のものだからです。作品は《歩く男Ⅰ》を右、正面、左から撮影したものです。屋外彫刻に以前から興味があったので、制作を引き受けたけど、プロジェクト自体は途中で頓挫してしまったそうですが、作品は残っています。
《歩く男》の作品が好きです。最初の《大きな像》も好きだけど、どっちと言えば、こっちかな。でも家に飾るなら、《大きな像》だけど(←)。
まっすぐなんです。全部。無駄も何もない、ただ身体も線も方向も内面も、ただまっすぐな「歩く男」。
わたしがジャコメッティを好きな理由の最大のポイントです。まっすぐなところ。そして、無駄がないと思っていたのは、その通りで、対象を見て、見つめ続けることで、対象の内側に向かっていくんですね。内側に向かって、外側にある無駄なものを削ぎ落として、そうして見えるものを見えるまま、ブロンズ像として表現しようとすると、細くなってしまうのです。肉体とか表情とか年齢とか、それはその人物を見分ける手段ではあっても、その人自身を表すものではないと思います。
わたしはいつも、わたしというものを探していると思います。外側にではなく、内側で。外側にわたしはない。それはいつも、わたしの中にある。他人が見たわたしもわたしではあるけれど、わたしがいて世界があるのなら(←実存主義)、わたしというものは内側にしか見つけられない。わたしがいなくても世界があるのなら(←本質主義)、それと信じられるなら、わたしはわたしを探す必要はないかもしれない。わたしはもう生まれて、ここに生きているから。
わたしがジャコメッティを好きな理由は、彼の作品の繊細さや姿勢に共感できるからでしょう。理解できない、共感できない人は、とことんできない。そんな作家かもしれません。
『終わりなきパリ』 1969年 |
ジャコメッティは晩年、『終わりなきパリ』と題した版画集の制作に意欲を注ぎました。当時の、自分の見たパリの街をそのまま絵にしています。瞬間を切り取った写真のようにも見えます。対象をとことん見ないと表現できない彼は、街にいる人たち、物たちを上手く捉えることができずに、曖昧な線で乱雑とも言える描き方です。だけど、ピンぼけした写真みたいと感じるのは、「瞬間」だからかもしれない、と思っています。
リトグラフはすべて完成したけれど、テキストが整っていない時、ジャコメッティは出版を見ることなく亡くなります。3年後、ようやく出版されます。
わたしは今、大切にしている言葉があります。大学の恩師に言われたことです。卒業後、大学でイベントがあり、久しぶりに会いに行ったんです。その時はもう仕事を休んでいる時です。一番辛いときで、悩んでいる時です。そんなことも話をしました。その後に行ってくださった言葉です。
「やるしかないね」
何か分からなくても、悩んでいても、とにかく何かはやるしかないのだと。慰めでもない、言わば、きつい激励です。その時は今一分からなかったけれど、今はその言葉を、本当に嬉しく、有り難く感じて、やる気がない時とか、泣いてしまう時とかに思い返します。
そして、今回の展覧会にもジャコメッティの言葉がありました。
「試みること。それがすべてだ」
結局はそこなのだと思います。わたしは物作りを生業にすることを決めたのです。それでも悩んで、今は停滞しているけれど、死んだ訳じゃない。死ぬという選択をせずに、生きるという選択をしたのなら、何か分からないままでも、手を動かし、何かをやって、試みることが肝要なのです。
改めて、強く感じました。だからって、すぐ治るものじゃないですが。そうだったら、こんなに苦労しません。
本文も長くなってしまいました。今まで、「何となく好き」と感じていたものが、「好き」になり「共感」までに辿り着きました。なぜ好きなのか、なぜ良いと感じるのか、理由付けがいつもわたしには必要で、そうすることが好きなのもあるけれど、今回の展覧会を見て、どうしてジャコメッティを好きと言うのか、その理由が分かりました。それはとても大きな収穫で、大きな変化で、とても大切な時間でした。
行ってよかった! 9月4日まで東京。その後、10月から豊田市美術館(愛知県)に巡回します。今年いっぱい、日本でジャコメッティをたっぷり堪能できます。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました^^
はじめまして
返信削除とても興味深く拝見しました。なぜ、ジャコメッティが好きなのかが展示を通して理解されたとのこと。私はその反対で、なぜ受け入れられなかったのかがわかりました(笑)
私も自分の思考については意識的で、内に向いているような気もします。しかし本質主義だったということがわかりました。私がいなくても世界は存在すると思っています。でも自分を探してる。矛盾しているのかなぁ…と新たに考えています(笑)
ジャコメティ、好きとまではいきませんが、気になる存在にはなってきました。恩師の言葉。自分にも重なりました。そこでの出会いは、自分の根幹を意味するのだな・・・と。
またいろいろ、考えるきっかけをいただきました。ありがとうございます。
コロコロさま、コメントありがとうございます。
削除好きと苦手が分かりやすく別れる作家ではないかと思います。
思考というのはいつも内向きで、オープンにしにくいものですが、それができるのが創作活動なのだと思います。
歴史的に名の残る作家であっても、同じ人間で、目の前に形としてあっても、それがすべて正しい訳ではありません。
考え方は様々です。正解もありません。思考を自分なりにでも続けることが大切なことなのかなと思います。
考えすぎもよくないよ、とは言われますが(笑)
コロコロさまにとって、何かの気付きのきっかけになれたのなら、とてもうれしいです。
ありがとうございました^^
考え方は様々… 自分が見たあとに、いろいろな方の感想を見るのが好きです。
返信削除こちらに記事をリンクさせていただいたことをお伝えする目的だったのを伝えそびれておりました。
http://korokoroblog.hatenablog.com/entry/%E5%AD%A6%E3%81%B3%EF%BC%9A%E3%80%8C%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E3%80%8D%E3%81%A3%E3%81%A6%EF%BC%9F_%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E2%80%95%E5%B1%95%E3%82%88%E3%82%8A%E3%80%8C%E8%A6%8B#fn-d5d0d586
見る前に感じていたこと。私も、同じような印象を持っていました。
>すべての無駄を削ぎ落として、人間として必要な芯だけ残した印象
ところが、実際に見たらその印象が違ったというのも面白いと思いました。
コロコロさま、お知らせありがとうございます。
削除リンク貼るくらいなら、特に構いません。お知らせくだされば。
個人的な感想だけの、blogですが、blogとは、そういうものですね。
わたしは根っからの文系で美術を勉強してきたので、理系の方が見たアートの文章もおもしろかったです。