3月31日、堂島リバーフォーラスにて、B.A.Pの3rd Album『Massive』リリースイベントがあったので、それに行ったついでに、橋を挟んで中之島にある美術館にも行けるな、と思って行ったのでした。そしたら、どっちがついでか分からないくらい、充実したアート体験となりました。
リリイベ自体は、フライングポッポ会という、はじめから謎なイベントだったので(他にも握手会、サイン会、ツーショットチェキ会もありますが、当たったのがフライングポッポ会だったのです)、試しに行ってみようという感じだったのもあります。相手がヨンジェですから。大好きですから、ヨンジェ。かわいいし、歌うまいし。ガッセのヨンジェと違ってツンデレだし。気分屋という噂でしたから、こっちも初めてだし、あまり期待はしていなかったのですが、見事に予想通りにあっさり感でした。まぁでも、思ったよりデカイんだなということや、ちゃん付けで呼んでくれたことや、間近できれいな顔が見られたので良しとしましょう。
さて、リリイベレポはこれくらいで、展覧会レポ。
展覧会もあまり期待はなかったんです。タイトルも説明も抽象的で空想的で、あまりそそられるものはなかったのですが、40周年記念だし、実を言うと着物を着ていたので、あっさり帰るのが嫌だったので、行くことにしたら、運良く無料観覧日でさらに見たことのない風景が多様にあったので、とっても面白かったです。
展示品は収蔵品を中心に、パフォーマンス・映像・体験など様々なもので構成されています。
《見せる:国立国際美術館のコレクションを巡るオーディオ・ツアー》 2018年 カリン・ザンダー |
普通は絵や作品があって、そこに作者や年代が書いてあるキャプションがあるのですが、これは番号と作品名だけが壁に書いてあって、それを見る人はオーディオ機器を借りて、音声による説明を聞いて、その作品がどんなものか想像を膨らませる、というものです。
国立国際美術館の所蔵作家143名による、143の音声作品、音声ガイド機器、ヘッドフォン、参加作家名を記した壁文字
これすべてで作品1つです。
現代アートと呼ばれるものにあまり馴染みのない人は、こんなの誰でも出来るとか、意味が分からないとか、そういう感想を言いがちですが、この作品の意図するところのように、
誰でも真似は出来るけど、そのオリジナルを作り出すことが出来るのが、アーティストなのかなと思います。誰もが通り過ぎるところを立ち止まり、意味を見出し、価値を付けることであり、それを広めてスタンダードにできたら、それはもう誰もが立ち止まるアートになります。
《アンダーグラウンド #6304》 1999/2001年 畠山直哉 |
真っ暗で空気の淀んだ地下水道に、大きな灯りをぽつんと立てて、写真に撮る。切り取られた風景のようにも見えるそれは、どこか全く別の遠い場所のようだけど、そこはコンクリートの下に広がっている。
とても好きな作品です。どこが好きと言われてもよく分からないけれど、似たような別の作品をどれもこれも時間をかけて眺めていることが出来るのだから、好きなのだと思います。
《フローラ》 2017年 テリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラー |
同期した両面スクリーンの映像インスタレーション。片方に若いフローラ、片方は母・フローラを思い浮かべる息子。
ドキュメンタリー映画のようです。ジャコメッティが愛したというフローラという女性の生い立ちや恋愛、苦悩を描いた白黒映画、取材を元に制作されているはずですが、脚本と女優とストーリーがあります。片や、現代の80過ぎの男性が、母のことを語ります。取材風景を撮影した完全なドキュメンタリーで、実際のフローラの写真、記録、純然たる事実。
交互に語り手が代わり、映像は続き、フローラを見ていても未来の息子の声が聞こえるし、息子を見ていても、過去の若いフローラの声がする。だけど、同時に別の画面を見ることはできない。できないからこそ、想像するのです。重なり合う、過去と未来、若い母と年老いた息子、相反する世界で語られる、世界でたった1人だけのフローラの物語。
30分あるのですが、両側から1回ずつ見て、この作品だけで1時間使っています。本当はあと1回ずつ見たかったですが、あまりに帰るのが遅くなるので止めておきました。
ジャコメッティが好きだから、彼に関係した女性の物語が気になるのかとも思いましたが、これはどこにでもあるようで、どこにもない、1人の女性の物語であり、芸術家とか時代とか著名作家との関わりとかそういうものとは関係のない、1人の人間のドキュメントです。
《これはプロパガンダ》 2002年 ティノ・セーガル
特に画像など無くて、でもご紹介しておきたいです。監視員のおばちゃんだと思っていた人(多分そうなんです)が、突然歌いだします。最初はびっくりします。発声なのか、メロディなのか、台詞なのか、それがパフォーマンスアートなのだと思います。
《雑草》 2006年 須田悦弘 |
柱のふもとの、床板が電源用に外れる場所に設置された草。床にある1ヶ所のガラスが気にならなければ、見えもしない作品です。こういうものを見ると、ふとした場所にある、何気ないものも、大切でかけがえのないものなのかもしれない、なんて感慨が湧いてきます。木に着彩したものらしく、サイズ可変だそうです。いろんな場所に、わざと気づかないような場所に設置して、探して遊ぶのも楽しそうです。
似たような作品で《チューリップ》というのも側にあります。これは上の方にあります。
この丸い絵は、イベントのひとつで、同じ風景を館内外で見つけて、クリップにコレクションしていこう、という感じのものです。気になったので、わたしもやってみました。絵だけ見ていると、どういうことか分からないのですが、実際にその場所に出会えば、理解できます。開館40周年ということで、美術館をもっとよく見てもらおうという企画だと思います。展示品の絵より、建物の絵の方が多かったように思います。
《至点》 1968年 ロバート・ラウシェンバーグ |
中にいる人は普通の観覧者です。朝に配られる整理番号を持っていたら、中に入れるそうです。この作品は写真が撮れます。サイドは開いていて、自動ドアです。修理されていて、この度とても久しぶりに展示されたそうです。
外から見ていてもきれいですが、中にはいると、とても明るくて、見え方が違うでしょうね。残念ながらわたしは整理番号を持っていなかったので、中には入れませんでした。中に入れることと、作品に触れることは違います。これから行く人は是非中へ。
全然期待していない展覧会だったんですが、国立国際美術館は比較的好きな美術館なだけあって、40周年記念も外れではなかったです。現代アート、けっこう好きなのかもしれません。思考することは嫌いではありません。疲れてしまうので、考えなくてもいいようなモノづくりしかほとんどしませんが。お金を取って見てもらうモノって、何にしても、説得力がないと駄目なんです。だから?って問われた時に答えを返せないものは、ただのモノです。
3月31日は会期中唯一の無料観覧日だったので、超ラッキーでした^^ ありがとうB.A.P。なので、浮いた観覧料分、もう1回行ってもいいかなぁ、なんて思っています。1日中いれそうです。疲れるから止めておきますが。
関西はちょうど桜が満開です。春です。新しい生活、がんばります。
Blogは本当にご無沙汰してしまうかもしれません。語るということのエネルギーがあまりないです。アウトプットができないのはどういうことかしら。でもまぁ、ぼちぼち、気が向いたら更新します。
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